丹野智文 認知症と生きる④

丹野智文 認知症と生きる④

おはよう21 2016年3月号
日本認知症ワーキンググループ/おれんじドア実行委員会代表 丹野智文
※本記事は、2015年~2017年に月刊誌『おはよう21』に掲載された丹野智文さんの連載「41歳、認知症と歩む」を、一部改変のうえ、再掲するものです。記載内容等は連載当時のものとなっております。
講演やマスメディアを通し、 認知症の当事者として発信を続ける丹野智文さんが、今までのこと、これからのことを語ります。
確定診断後の絶望のとき

二度目の入院

地元の専門病院での検査入院の結果、「アルツハイマーの疑いがあるけれどこの若さでは見たことがない」と言われ、私は再度、若年性アルツハイマーの診断経験が豊富な大学病院に検査入院することを決めました。
再入院前、一度会社に行き事情を話しました。私が勤めるネッツトヨタ仙台の当時の社長である野萱(のがや)和夫さんは、普段からまめに販売店に顔を出す経営者でしたが、そのときも私の話を聞いて販売店に来ていました。
社長から言われたのは、私のお客さんを「全部後輩に引継ぎなさい」ということでした。「会社に戻って来られるようにする。まずゆっくり入院するため」と言ってもらえたのですが、これまで営業を頑張ってきただけにショックで、「もう営業社員としては働けない」と感じました。
同僚にも「アルツハイマーかもしれない」と話したのですが、皆、「もの忘れは私もあるよ、大丈夫」と言います。私への気遣いもあったと思いますが、正直、「本当に同じなのかな」と疑わしい気持ちで聞いていました。大学病院で検査を受ける間、「身体はこんなに元気だし、違う病気かもしれない」と思いながらも、一番の気がかりは今後の仕事のことでした。
大学病院でも、あらゆる検査を一から受けました。MRIなどの画像検査はもちろん、髄液をとって調べる検査は痛みもあって何度も受けるのは嫌でしたが、「すべてを調べ直すことで病気がはっきりするなら」と思い、淡々と受け続けました。 そして2週間後、主治医から告げられたのは、「若年性アルツハイマーで間違いありません」の言葉でした。
「やはり、人とは違うもの忘れだったのか…」。隣にいた妻は、泣いていました。子どももまだ小さいのに、これからどうしたらいいのかと、絶望的な気持ちでした。人生が終わったのだと思いました。

不安のなか

診断が出たことで、症状の進行を抑制する薬のアリセプトを飲み始めることになり、薬の調整のためにもう2週間ほど入院しました。
その期間は薬を飲むしかやることがなく、入院していた認知症フロアからは外にも出られませんでした。隣のベッドのおじさんは、認知症が進んでいるのか、うつが進んでいるのか、話しかけても話がかみ合いません。食堂と病室の往復で話す相手もおらず、とても退屈でした。ついこの間まで、毎日普通に働いていたのに……。
暇があると、悪いことばかり考えてしまいます。日中は看護師さんと話すこともあるのでまだいいのですが、夜になると病気のことで頭がいっぱいでした。
病室のベッドで布団を頭からかぶって、「30代 アルツハイマー」「若年性アルツハイマー」とスマートフォンでひたすら調べました。出てくる情報は「進行が早く2年後に寝たきり」「10年後に亡くなる」など、そんなことばかりです。「30代でアルツハイマーの診断は間違いだ」といったことも書かれていました。
2つの大きな病院で検査したうえでの診断なので、間違いではないのだろうと思いましたが、たしかに30代でアルツハイマー型認知症になった人の情報はまったくないのです。これから自分がどうなるのかと眠れず、一晩中調べ続けました。頭の中はいつも不安で埋め尽くされていました。
4月上旬。病院の窓から見える桜が、ただただきれいでした。もの忘れが気になってクリニックを受診したクリスマスの日から、もう3カ月が経っていました。

主治医との相談、退院

診断後、主治医はこれまで他の若年性アルツハイマーの患者を担当した経験から、私が今の会社で働き続けられるかを心配してくれていました。
会社への伝え方に関して、主治医からは3つの選択肢の提案がありました。会社の管理職に病院に来てもらって主治医から話すか、会社の産業医を通じて伝えるか、直接私が伝えるか、の3つです。
初めは会社の所属部門の役員に病院に来てもらおうかと思ったのですが、なかなか主治医と役員の予定も合わず調整が大変だったので、最終的には3つ目の選択肢、「自分で伝える」に決めました。
薬も、当初は3㎎から飲み始めたアリセプトを、10㎎まで量を上げてから退院する予定でしたが、ネガティブなことばかり考えてしまう入院生活がもう嫌で、薬の調整は引き続き自宅ですることにして、4月半ばに退院しました。
退院して数日後には、妻と一緒に社長に会いに行くことにしていました。自分では「もう首になるだろうな」と考えていたので、退院の翌日には公的な支援がないだろうかと区役所に向かいました。
窓口での対応は、驚くべきものでした。
生21-5112,商品開発G
丹野智文さん

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