おはよう21 2016年1月号
日本認知症ワーキンググループ/おれんじドア実行委員会代表 丹野智文
※本記事は、2015年~2017年に月刊誌『おはよう21』に掲載された丹野智文さんの連載「41歳、認知症と歩む」を、一部改変のうえ、再掲するものです。記載内容等は連載当時のものとなっております。
講演やマスメディアを通し、認知症の当事者として発信を続ける丹野智文さんが、今までのこと、これからのことを語ります。
営業社員時代
大学を卒業し、偶然の出会いから就職を決めたのは、自動車販売会社の「トヨタオート仙台」(現・ネッツトヨタ仙台)でした。
営業の仕事、結婚
販売店勤務となり、最初の3年間は訪問営業がメインの仕事でした。担当エリアの家を一軒一軒回るのですが、私の担当は本当に山間の田舎でした。家同士が離れているので1年半で6万5000キロ以上車で走ることになりました。しかも車はまったく売れません。
当時の自動車販売業界では、訪問はメジャーな営業方法でしたが、「こんなことをやっていていいのかな」と疑問を感じながら働いていました。かたや、販売店に来るお客さんには売れていたので成績は普通でしたが、当時は「営業って全然楽しくないな」と思っていました。
プライベートでは、会社の新人研修のときに同期の女性とお付き合いを始めていて、付き合って3カ月後には、「結婚したいね」という話になりました。
相手方のご両親にお願いに行ったところ、「早過ぎる、3年間は付き合ってから来なさい」と反対されました。それでもすぐに結婚したかったので、その後の半年間、二度もお願いに行きました。「そんなに言うなら」と許可をいただいて、翌年には彼女と結婚しました。今になってみると、冷静になれていなかったんでしょうね(笑)。
フォルクスワーゲンの販売店へ
仕事では、3年目に仙台市内に異動になりました。それまではトヨタ車を売る店舗でしたが、配属されたのはドイツ車、フォルクスワーゲンの販売店でした。そのとき何となく、「ここで1番になりたいな」と思いました。店舗の営業スタッフが4人だったので、4人なら1番になれるんじゃないかと思ったんです。
ただ、今までのやり方では無理なので、「方法を変えよう。訪問営業以外で売上が上がるよう、お客さんのほうからお店に来てもらおう」と決めました。お店に来てもらうために、車を売ることではなく、「どうしたらこの人に好きになってもらえるかな」と考えながら仕事をしました。
トップ営業社員への道
恋愛なら、人に好きになってもらいたければ、頻繁に手紙を書いたり、電話やメールをします。でも営業担当が普通に点検やイベントの案内をするだけでは、半年に1回しか連絡できません。
毎月何度も電話するためには、どうすればいいかと考えました。それで、お客さんへの連絡では「あなたを常に気にしています」というメッセージを伝えるようにしたんです。
たとえば台風が来た次の日なら、「台風は大丈夫でしたか? 心配していたんです」とか、暑い日が続けば「暑いとタイヤの空気圧がだめになることもありますが、問題ありませんか?」という感じです。だから天気が荒れたりするとチャンスと思っていましたね(笑)。 休みの前に電話して、休みの後も「休みの間、問題ありませんでしたか」と電話して、もう常に電話することを考えていました。
電話では、他の話をさんざんしてから、「ああ、そういえば点検でしたね。いつ入りますか?」と、車の話を少しだけしました。
2回電話をしてつながらないときは、お礼や車の調子を尋ねる手書きの手紙やはがきを送りました。あるとき、人からもらったはがきに貼ってある記念切手がきれいで目に入ったので、それからは自分でも記念切手を買って、お客さんへのはがきや手紙に使いました。会社の近所の郵便局では、切手マニアと思われていたんでしょう。「新しい記念切手入ったよ」と声をかけてもらうこともありました (笑)。
他の人の営業方法を見て良いなと思う点は、後輩でもどんどん真似て取り入れました。成績も上がり、本当に楽しく仕事をしていました。
家庭では、結婚2年目に長女、4年目に次女を授かりました。結婚を機に妻は別の職場に勤めていたので、私が休みで妻が仕事の火曜日は、私が子どもたちの面倒をみる日でした。
当時はカブトムシの形をした「ビートル」という車に乗っていて、私が黄色いビートルで幼稚園に迎えに行くと「かわいい」と言って子どもたちも喜んでいましたね。小学生になっても、学校が夏休みなら娘と3人で遊園地に行くこともありました。
そんなふうに、仕事も家庭も順調でした。ですが、勤め始めて3年目、今から7年前くらいからでしょうか。もの忘れが気になるようになってきたのです。
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